地形から町の成り立ちをひもとく歴史地理学のスペシャリスト、京都大学の山村亜希先生と犬山をお散歩!地形図と現地を見比べながら、「なるほど!」と答えあわせをする“まちあるき”は、発見の連続です。
Index
#1 犬山城本丸
~信長・秀吉・家康がその価値を認めた唯一無二の城
戦国時代の終わりから江戸時代にかけて、日本には数百もの城が築かれました。しかし、江戸時代の天守が今も残るのはわずか12城。そのうち、国宝に指定されているのはたったの5城にすぎません。犬山城はその「国宝五城」の一つであり、現存する日本最古の天守として知られています。
犬山城の起源は1537年、織田信長の叔父・織田信康による築城に遡ります。当時は天守を持たない「山城」でした。その後、城の支配権は尾張を統一した信長、天下人となった秀吉へと移り、戦略上の要衝として重視されます。現在、私たちが目にする天守の骨組みは、この秀吉の時代(1585年〜1590年頃)に造られ始め、江戸時代初期に現在の姿へ整えられました。関ヶ原の戦いを経て、城は家康の支配下に入りました。
信長・秀吉・家康――。
戦国の三英傑すべてがその戦略的価値を認め、支配下に置いた城は、全国でも極めて稀な存在なのです。
では早速、国宝の天守に登ってみましょう!
#2 犬山城天守
~戦いの場から経済の拠点へ
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2階(武具の間、武者走り)
こちらの部屋は「武具の間」。大量の武具が保管されていました。天守がつくられた当初は領主が一時的に利用することもあったようですが、江戸時代に入り平和な世の中になると、統治及び生活の場は「御殿」へ移り、天守は倉庫、物置として使われていることが多かったようです。
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4階(室内) -
4階(廻縁)
国宝五城の中で、天守最上階の外周をぐるりと一周できる「廻縁」を歩き、360度のパノラマを楽しめるのは犬山城だけです。ここから見える景色には、天下人が犬山城を愛した「地形的な理由」が詰まっています。
尾張を一望する「扇の要」
南側には名古屋や小牧山城まで続く濃尾平野が広がります。犬山は、木曽川が運んだ土砂でできた巨大な扇状地の「扇の要(頂点)」に位置します。ここから南はなだらかに下る地形で遮る山がないため、尾張を統一した信長にとって、濃尾平野に広がる領地を見渡すことのできる絶好の場所だったのです。
美濃を睨む「国境の最前線」
反対の北側に目を向けると、眼下には木曽川が流れ、その先にはかつての敵国・美濃(岐阜県)が広がります。尾張を統一した信長にとって、ここは美濃の動向を察知する最前線でした。信長はこの場所から敵陣を睨みながら戦略を練り、やがて稲葉山城(現在の岐阜城)を攻略。天下布武への大きな一歩を踏み出したのです。
軍事から経済へ「都市建設を支える経済的要衝」
天下統一を果たした秀吉が注目したのは、東側。木曽川上流の広大な山林です。当時、大坂城や伏見城などの「慶長の築城ラッシュ」を支えていたのは、木曽の木材でした。犬山は、急流で下ってきた筏が平野部に入り、流れが緩やかになる絶好の場所。天然の「物流検問所」でした。犬山城主を木曽代官に任じた秀吉にとっての犬山城は、日本の城郭建設を支える経済的な要衝だったのです。
次に、家康がどのように犬山城を愛したのか、城下町を歩きながら考察してみましょう。
#3 城下町(専念寺)
~都市を規定する「段丘崖(だんきゅうがい)」
大本町通りを西に入った専念寺にやってきました。西側が坂になっていますね。台地の上にまちが作られているため、敵の侵入から守りやすいことがわかります。犬山城下町の西端を画するのは、約10mもの高低差を持つ「段丘崖(だんきゅうがい)」です。この崖の存在こそが、かつての暮らしの境界線でした。東側の“丘の上”は地盤こそ強固ですが、水を得るには深い井戸を掘る必要があり、かつては手付かずの「原野」が広がっていました。対して西側の“丘の下”は、水には恵まれるものの、軟弱な地盤と洪水の脅威にさらされる土地でした。そのため、この“へり”こそが、地盤の安定と水へのアクセスを両立できる最適な居住区だったと言えます。戦国時代までは、いわば「地形が人間を規定する」時代でした。洪水リスクがあっても水が得やすい場所で生きるしかなかったからです。しかし信長・秀吉・家康の時代になると、土木技術が向上したことで、人間は地形の制約を克服し、自らの手で「理想の都市」を設計できるようになりました。三英傑の時代以降の都市計画とは、土木技術を武器に「水なき原野」を「強固な地盤のニュータウン」へと変貌させた、時代を画する一大プロジェクトだったと言えるでしょう。
#4 城下町(大本町通り)
~なぜメインストリートは動かされたのか?
徳川が犬山城を重要視した理由を探るため、町の中心部へと足を運んでみましょう。目の前に広がるのは「大本町通り」。
かつての台地の“へり”に沿ってつくられた、この町で最も古い通りです。江戸時代の犬山は、“丘の上”にある武士や町人の「城下町」と、“丘の下”にある鵜飼や物流の拠点「港町」という、上下二つの世界が連結して成り立っていました。一般的に「本町」といえば、商業が最も盛んなメインストリートを指します。秀吉の時代まではまさにこの通りが町の中心でしたが、徳川の世になると、メインストリートはあえて一筋東側へと移されました。わざわざ町の中心を動かすという大胆な都市改造。そこには、徳川が犬山城に託した並々ならぬ重要性が隠されているのです。
#5 城下町(本町通り)
~本町通りが語る「尾張二城」の物語
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本町通り北向き -
本町通り南向き
多くの観光客で賑わう現在の「本町通り」。この道を北へ進めば犬山城、南へ下れば名古屋城へと辿り着きます。徳川の時代、名古屋へ真っ直ぐに繋がる街道として意図的に整備されたのが、このメインストリートです。
1. 徳川の布陣が生んだ「二城体制」
その背景には、当時の特殊な統治体制がありました。1615年、幕府は「一国一城令」を発布しますが、尾張藩は例外的に名古屋城と犬山城の「2城体制」で治めることが許されました。名古屋城には徳川家康の九男・義直が置かれましたが、彼はまだ幼少であったため、家康は信頼する側近・成瀬正成(なるせ まさなり)を付家老として送り込み、犬山城主に据えたのです。
2. 清須から名古屋へ、時代の転換点
この時代、尾張の歴史を揺るがす大きな変化が起きていました。家康の命による「清須越(きよすごし)」です。尾張の中心が清須から名古屋へと移り、政治・経済の軸が劇的に変化しました。それまでの犬山は、かつての中心地・清須へと繋がる「清須街道」が主要ルートでした。町の中心も現在の本町通りの西側に位置する「大本町通り」にあり、そこが犬山の経済を支えるメインストリートだったのです。
3. 成瀬氏による大胆な「都市改造」
名古屋城の築城と歩調を合わせるように、犬山城主となった成瀬氏は、この町に大胆な都市改造を施します。新都・名古屋との連携を強めるため、メインストリートを「大本町通り」から東側へ一筋ずらした現在の「本町通り」へとシフト。これによって、名古屋へと直線で向かう新街道「名古屋街道」を再整備したのです。多くの観光客で賑わう現在の「本町通り」。この道を北へ進めば犬山城、南へ下れば名古屋城へと辿り着きます。徳川の時代、名古屋へ真っ直ぐに繋がる街道として意図的に整備されたのが、このメインストリートです。
山村亜希「犬山城下町の空間構造とその形成過程」地域と環境14,2016年、図4を引用
地図を見ると、この道が「天守」ではなく、今の針綱神社の場所にかつて存在した「御殿」に向かって伸びているのがわかります。戦乱期の遺物である見張り櫓の「天守」ではなく、政治の場である華麗な「御殿」を街道の正面に据える――。
それは、軍事の緊張が解け、平和な江戸の世が始まったことを領民に示す、統治者による新たな演出でもあったのです。
では、天下人が犬山城を愛した理由をまとめてみましょう。
1. 信長の時代:軍事・戦略の最前線
信長の時代、尾張は南北に勢力が二分されていて、北端の犬山は敵対勢力との境界にある軍事の拠点でした。信長にとって犬山奪還は尾張統一への悲願であり、美濃攻略に向けた「軍事・戦略の最前線」でした。
2. 秀吉の時代:経済の要衝
天下統一後、城の価値は「軍事」から「経済」へシフトします。木曽川が山間部から平野部へ出る結節点にある犬山は、中世から物資運搬の要所でした。築城ラッシュで需要が高まった木曽材を管理する「経済の要衝」として、天下人・秀吉に重用されました。
3. 家康の時代:平和の象徴
江戸時代、犬山城は尾張徳川家を支える成瀬氏の居城となり、政治的な格付けを示す存在へと昇華します。街道の整備とともに「城下町の顔」としての役割が強まり、実戦用から平和な時代を統治する「平和の象徴」へとその姿を確立させました。
天下人が犬山城を愛した理由がわかったところで、ちょっと寄り道してみましょう。
#6 小島醸造
~脇道にある有力商人の豪邸
本町通りから脇道に入り、弁柄(鉱石を原料とする赤褐色の顔料)の長塀を眺めながら歩くと、ぽっと現れるのが小島醸造です。店先から中をのぞくと昔ながらの土間と帳場があり、信楽焼きの大きな樽が目を引きます。
宿 -shuku- 支配人 平野 祥さん
慶長2年(1597年)の創業から420年以上、薬膳酒「荵苳酒(にんどうしゅ)」を醸造し続けています。犬山藩主成瀬家の将軍献上酒であり、「飲めば病知らず」と家康が愛飲していた逸話も残されています。
小島家は、犬山の名家の例にもれず、最盛期には茶会が盛んに開かれ、犬山城主・成瀬氏や秀吉が訪れたとも伝えられ、現在は、登録有形文化財建造物になっています。表千家の「残月の間」を模した茶室や、菊や桐の御紋章の細工が使われた座敷、古田織部が作庭した庭園などがあり、2025年に邸宅をリノベーションし、ホテル「宿-SHUKU-」と日本料理店「古今」をオープンしました。
山村亜希先生
清酒が普及する以前の「酒=薬(薬膳酒)」という古いあり方を伝える荵苳酒は、秀吉時代の海外交流や朝鮮半島の技術伝播を背景にもつ、極めて希少な文化遺産で、売り物自体が歴史と言えます。
また、この店がメインストリートである本町通りではなく、一筋入った脇道にあることも興味深いですね。犬山の都市計画には、同じ町人地でも通りによって明確な棲み分けがあり、メインストリートでは鰻の寝床のような敷地の町屋が軒を連ねて、賑わいを創出する一方、脇道では荵苳酒を扱う小島氏のような有力商人が豪邸を構えています。あえてメインストリートの喧騒を避けた脇道に、有力商人の屋敷を配置するという、独特の都市設計が今も息づいていることを感じられます。
# 7 結びに代えて
~地形と歴史が織りなす「生きた教科書」
山村先生と歩いた犬山のまちは、単なる観光地ではなく、数百年分の知恵と戦略が層のように積み重なった「巨大な古地図」そのものでした。
信長が目を光らせた切り立った崖、秀吉が物流を掌握した木曽川のほとり、そして家康の命を受けた成瀬氏が、平和への願いを込めて再設計した真っ直ぐな本町通り。私たちは今、かつての天下人たちが眺めたのと同じ「地形」の上に立ち、彼らが描いた「都市の設計図」の中を歩いています。
脇道に佇む小島醸造で、家康も愛したという荵苳酒の香りに触れるとき、歴史は教科書の中の出来事ではなく、今もこの町に息づく確かな手触りとして感じられるはずです。
地形を知れば、歴史が見える。歴史を知れば、歩く景色が変わる。
天下人が惚れ込み、守り、作り変えたこの「国宝の城下町」には、まだまだ語り尽くせない秘密が眠っています。
さあ、皆さんも地形図を片手に、自分だけの「なるほど!」を探しに犬山を歩いてみませんか?

